太陽と月と花火と

不確かな記憶の中に生きている

寂しさを手放す寂しさ

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にしてるのー?って言葉が好きな人のおかげで好きになった。
パスタをソースから1,2回作れるくらいの距離で彼女は本を読んでいたり、勉強をしていたり、映画を観ていたりする。時には愛猫と追いかけっこしたりくっつきあってたりする。少し羨ましいって思うけれども、不思議とさっきまであった寂しさは愛おしさに変わっていたりする。

 

と、寂しさを感じ、好きな人の大きさを感じる距離と時間が無くなることへの寂しさを感じた。
感じてしまった。
うまくやっていけるだろうかという不安は確かにあったが、それは結構前に溶けて、一緒に住むことへの前向きな感情に上乗せされた。でも寂しさが愛おしさに変わることは間違いなく減っていくんだろうなって思った。それが寂しく、ちょっとした恐怖だった。

 

れども、似たような感覚を以前にも感じていて、頑張って思い出してみたら、付き合う前の感覚とよく似ていた。
これ以上関係が進んでしまうと、壊れてしまうんじゃないかというネガティブな妄想と恐怖。話をすることだけでこの上なく楽しくて、好きな人をさらに知ってさらに好きになっていくのも喜びだった。それが壊れてしまうんじゃないかって思った。結果として確かに関係性は変化したけれども、もっと近くで支えになれること、支えられること、手に、肌に、唇に、触れられること、どれも素晴らしかった。
愛なんて人間の種を残そうとするための働きにすぎないかもしれないけれど、イエスが生まれ、聖典が世界一売れてる本になっていて、少なくとも僕らの祖先は人間の種を残そうとする働きに性欲とは別の、愛という名前を付けたわけで。
僕はそれを信じたい。また信じたいと思った。

 

っくり少しずつ前に。きっとぶつかることもあるだろうけど、実際怖いけど、一番怖いのは好きな人がいなくなってしまうことだから、それは忘れずに一緒に進んでいけたらなって思う。
もしも神様がいて、人間をあえて不完全に設計したとするなら、柔軟性を持った完全を目指せるようにってことだと思う。欠けてるところや足りないところがない状態って、崩壊しやすい気がしてる。勝手にそんな気がしてる。
ちょうどそう感じていたら、今読んでいる本にほとんど答えであろう言葉あった。テオ・ヴァン・ゴッホテオドルス・ファン・ゴッホ、画家ゴッホの弟)から妻になる女性に宛てられた手紙の一部。

ありのままの自分たちを知り、互いに手を差し出して、1人でいるより2人でいるほうが強くなれると信じ、人生をともにすることによって互いの間違いを認め、許し合い、それぞれの良いところと高潔なところを育みながら希望を胸に戦う。

「1人でいるより2人でいる方が強くなれると信じ」って言葉に、長らく感じてなかった温かいけれど滾るような感動を覚えた。まぁ難しく書かれてるけど、穏やかな日々と君も同じように感じてくれてるといいなってことと、出来るだけ温かくそばに居たいって思ってる。

がーっと書き上げた午前1時、そろそろ彼女は映画を観終わる。